よりやや大きい程度であった。)・ 当時の住民は12万人(または20万人)と言われている。 城壁が、この12万人の住居のみならず、付属の草地もぶどう畑も、作業の小屋さえも包み込んだ。------------------------------------------------- 右岸編1(10/11) http://4travel.jp/travelogue/10942604右岸編2(10/11) http://4travel.jp/travelogue/10942606左岸編1(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942608左岸編2(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942609城壁内編(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942610まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612, フィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)の跡を巡る、パリのお散歩。この地図は、その城壁跡を巡りながら散歩をするにあたり、自分が見たい場所の最低限を見てまわるには、どれくらいかかるのだろう?と思いながら、旅行前に、Google Mapで(徒歩)計測してみた感じです。このように、さくさくと歩けば、(現代の道を使えば)おおよそ「 7.2km 1時間31分 」 だということが分かりました。, そして、こちらは、実際に歩いた感じをGoogle Mapにマーカーした地図。城壁跡周辺のおもしろそうなところに” 寄り道しながら ” 歩いたのでこのようになりました。* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Mapshttps://goo.gl/1Rce1Y 右岸(上:10/11)と左岸(下:10/13)は、それぞれ日を分けて歩いたのですが・・実際に歩いた時間は、右岸:13:30頃から約2時間半?3時間、左岸9:00から約4時間、 でした。, フィリップ・オーギュスト時代のパリの城壁(Enceinte-philippe-auguste-1223-paris wikimediaより)-------------------------------------------------まず、この日(10/11・土)は、次のように動きました。□朝一で、パリの北近郊にあるサン・ドニ大聖堂へ。□12時前に、モンマルトルのブドウ収穫祭のセレモニーへ。■13時半頃から、フィリップ・オーギュストの城壁を歩く(右岸編)。□17時過ぎ〜、アベス駅付近でモンマルトルのブドウ収穫祭パレード見学。□21時45分〜、サクレクール寺院前でモンマルトルのブドウ収穫祭の花火見学。なかなかタイトなスケジュールの1日ですが、夕方以降は、そんなに歩きまわらず、一箇所で見学する、というような内容(パレード&花火)なので、とりあえず今は、この 『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 を頑張りたいと思います。まず、今日は、城壁があった右岸の西端(セーヌ川沿い)から半円を描くように歩いていきたいと考えています。 (※この地図の上の半円部分がセーヌ右岸)矢印で表すなら、こんな感じで歩きます。 → → ↑ ↓16時頃にサン・ルイ島でちょっと用事があるので、その時間を目指して、城壁のあった右岸の東端(セーヌ川沿い)まで歩きます。-------------------------------------------------, まずは、ルーヴル・リヴォリ駅で降りた後、通りがかって1枚撮影。サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois2 Place du Louvre, 75001 Parisここで祀られている聖ジェルマン(聖ゲルマヌス)は、ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセール司教。 サン・ジェルマン・デ・プレ教会の守護聖人、パリの聖ジェルマンとは違います。ヴァロワ王家が14世紀にルーヴル宮を居城にしたため、この教会がフランス国王の教区教会となり、歴代の国王がここで彩色に臨んだばかりでなく、聖堂の装飾に出資したり、寄進を行ったりした。1572年8月24日の晩に鳴り響いた朝課の鐘の音は、サン・バルテルミーの虐殺の合図となった。 (※この事件については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。), ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り スタート地点!!! ≫≫≫◆旧コワンの塔 Tour du Coin 界隈(現在のフランソワ・ミッテラン河岸、ポンデザール、ルーヴル美術館近く。)la Tour du coin, rive droite, tout près du Louvre (quai François-Mitterrand) セーヌ川沿い、ルーヴル美術館横、フランソワ・ミッテラン河岸に到着。このあたりに、コワンの塔 Tour du Coin があったようです。フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste) (地図は、Atlas historique de Parisより、以下地図も同。)http://paris-atlas-historique.fr/50.htmlhttp://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf, ルーヴル城塞とコワンの塔(左:右岸)と 対岸のネールの塔(右:左岸)( Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_et_hotel_de_Nesle_face_au_Louvre wikimediaより )セーヌに2つの小さな島が見えますが、シテ島の先っぽにこのような小さな島があったそうです。 上に小さく先端が見えるのがシテ島です。 ここにはないですが、シテ島の隣りのサン・ルイ島も2つに分かれていました。, ルーヴル城塞とコワンの塔(右)( Le rempart du Louvre le long de la Seine avec la tour du coin a droite. 本の中では、”フィリップ・オーギュストの城壁の壁さがし” という記事とともに ”パリにあったフィリップ・オーギュストの城壁の跡が記された地図” が載っていたのですが、この地図を見ていて、 【なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、 5.ルイ十三世の壁 宗教戦争が一段落すると、ルイ十三世(在位1610~43年)は長いあいだ放置されていた新城壁の問題を取りあげる。新城壁は、シャルル九世(在位1560~73年)が着工する。 Copyright(c) forTravel, Inc. All rights reserved. ルイ=フィリップ1世の発行されたナポレオン金貨の額面は20フラン金貨と40フラン金貨のみでしたが、試作金貨の100フランと実際は銀貨で発行するものを金打ちをした1フラン試鋳金貨が存在します。100フラン金貨は数百万という価値があるようです。試作金貨が再びオークション市場に出たときの価格は今保有しているかたが手放したいと思う価格ですよね。プルーフ型アンティークコインにも価値が多く生まれますが試鋳金貨のなかでもパターン貨のみでこの世に出回ることがなかったこちらのコイン、今は世界のどこで大切に歴史を刻んでいるのでしょうか? フランス最安 金貨買取本舗では海外金貨を高価買取中!プレミアのつく金貨は買取価格より別途査定価格がアップされます。お持ちの外国金貨はどれくらいの価格になるのか、価値が気になるかたはぜひ無料査定をご利用下さい。価格表にないコインもお買取りいたします。. ルイ=フィリップ1世(フランス語: Louis-Philippe I er 、1773年 10月6日 - 1850年 8月26日)は、オルレアン朝のフランス国王(在位: 1830年 - 1848年)。 爵位はヴァロワ公爵、シャルトル公爵、ヌムール公爵、オルレアン公爵など。 フォートラベルポイントって?, フォートラベル GLOBAL WiFiなら シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe, 1874年8月4日 - 1909年12月21日)は、フランスの作家。, フランス中部アリエ県のセリー(フランス語版)に木靴屋の息子として生まれる[1]。1891年に科学系バカロレアを取得し、パリに出てグランゼコール受験準備に努めていたが(志望校は理系最難関校のエコール・ポリテクニークとエコール・サントラル・パリ)[1]、病弱であったことも災いして不合格を繰り返し、学業を断念した[2]。その後、パリ第4区の区役所に勤めた。当時社会芸術運動を提唱していた『ランクロ』誌の同人となり、ディケンズ、ドストエフスキー、トルストイなどの影響のもとに、多くの作品を発表する。始めは高踏主義的な作風に惹かれるが、やがて貧しい庶民の生活を瑞々しい感覚で描くようになった。その作風は写実的ではあるが、民衆への温かい理解が行き渡っており、当時の自然主義作家の作風とは対極をなしている。独特の神韻縹渺な世界はジッド、ジロドゥなどにも高く評価され、日本でも堀口大學、淀野隆三らによって翻訳・紹介された。太宰治は、「かれ(フィリップ)こそ、厳粛なる半面の大文豪。世をのがれ、ひっそり暮した風流隠士のたぐいではなかった。三十四歳(原文ママ)で死したるかれには、大作家五十歳六十歳のあの傍若無人のマンネリズムの堆積が、無かったので、人は、かれの、ユーゴー、バルザックにも劣らぬ巨匠たる貫禄を見失い、或る勇猛果敢の日本の男は、かれをカナリヤとさえ呼んでいた」[3]と評している。, 髄膜炎に腸チフスを併発し、35歳の若さで死去[4]。故郷セリーの墓地に埋葬された。墓石のシャルル=ルイ・フィリップ像はアントワーヌ・ブールデル作である[5]。, 代表作に『ビュビュ・ド・モンパルナス』(1901年)、没後出版された短編集『小さな町で』(1910年)などがある。『ビュビュ・ド・モンパルナス』は1971年にマウロ・ボロニーニ監督により映画化された。映画の邦題は、同年、山崎剛太郎の翻訳として刊行された邦題『愛すれど哀しく』による。, Tombeau de Charles-Louis-Philippe – Cérilly, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=シャルル=ルイ・フィリップ&oldid=76977577, 『フィリップの本 - 小さな町の人々』小牧近江訳、山の木書店、1950年; アルス日本児童文庫刊行会(日本児童文庫)1958年(一、フィリップのお母さん(わが家 / 学校 / 病氣 / お母さん)二、フィリップの友だち(乳母車 / 小さな弟 / アリス / つむじまがり / 手まり / ずる休み / 聖水 / 火遊び / 鉄砲うち / 仔犬)三、小さな町の人々(小さな町 / お說敎 / 降誕 / ある一生 / 二人のこじき / 箱入娘 / ゴティエさん)), 淀野隆三訳『朝のコント』岩波書店(岩波文庫)1961年(チエンヌの女房の足 / バタの中の猫 / ロメオとジュリエット / 小犬 / 二人のならずもの / めぐりあい / 来訪 / ライオン狩り / 食人種の話 / マッチ / ほどこし / サタンの敗北 / 遺言 / 恋の一ページ / やきもち娘 / のんだくれ / 告白 - サルペトリエール精神病院の一患者から見出された手記 / 来訪者 / 人殺し / チエンヌ / ぬけやすみ / 純情なひとたち / 友達同士で / 三人の死刑囚), (ビュビュ・ド・モンパルナッス / 火つけ / 帰宅 / 二人の隣人 / 片意地な娘 / 弟 / アリス), 石川湧訳注『フィリップ短篇選集』(対訳)第三書房、1956年(荷車 / 老人の死 / ある生涯 / バタの中の猫 / ロメオとジュリエット / めぐりあい), 新潮社『フィリップ全集』(全3巻)(第1巻:小牧近江他訳、第2巻:吉江喬松他訳、第3巻:山内義雄他訳)1929-1930年. ナポレオン3世(第二帝政) ・普仏戦争敗戦 ↓ <第三共和制> 全体像. EUR 39.0~, リヴォリ通り Rue de Rivoli へ出ました。 (市庁舎 Hotel de Ville 側を撮影), オラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre 後陣側ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)をリヴォリ通り Rue de Rivoli へ抜けると、すぐに(リヴォリ通り沿いに)オラトワール教会の後陣が見えます。その、オラトワール教会の後陣側には、”コリニー提督の像”があります。コリニー提督 Gaspard de Coligny (宗教戦争期の新教徒軍指導者)は聖バルテルミーの大虐殺(1572年8月24日)の夜に殺され、この近くにあった自邸の窓から投出されたという人。16世紀には、オラトワール教会の地には、ガブリエル・デストレの館が立っていたそうです。 ある日この美しい愛妾を訪ねてきたアンリ4世は19歳の旧教同名員シャテルに襲われ、短刀で顔を切られた。 男は翌々日グレーヴ広場(現市庁舎前広場)で四つ裂きの刑を受けた。1616年、ベリュル枢機卿により創設されたばかりのオラトリオ会がこの地に居を定め、ル・メルシエの設計により礼拝堂(1621〜30)を建立させた。 建物はルイ13世の計画に従えば、ルーヴル宮の一部になるはずであった。 そして、事実、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世時代には王宮礼拝堂となった。(※先程1枚、次にも1枚写真を載せたサン・ジェルマン・ロクセロワ教会で起った聖バルテルミーの事件やコリニー提督については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。), リヴォリ通り越しに振り返ると、メトロ駅を降りて一番初めに撮った(聖バルテルミー事件で有名な)サン・ジェルマン・ロクセロワ教会が見えます。右に見えるのは、ルーヴル美術館の東端の建物。, オラトワール通り(Rue de l'Oratoire)を北へ。左に見えるのがオラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre です。145 Rue Saint Honore, 75001 Paris, ◆旧サントノーレ門 Porte Saint-Honore 界隈la porte Saint-Honore (au no 148 de la rue Saint-Honore, au niveau de la rue de l'Oratoire) 148 Rue Saint Honore, 75001 Parisオラトワール通りから見た(突き当たりの建物の通りが)サントーレ通り Rue Saint Honore。これから突き当たりを左に曲がりますが、左入ってすぐにオラトワール教会の正面(サントノーレ通り145番地)があり、その向かいが148番地。 そこに、サントノーレ門があったそうです。すなわち、ここに見える通りの右側は、”城壁内”だったというわけ。※ちなみに、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクがパリ攻撃の際、サントノーレ門あたりで負傷した、という歴史がありますが、ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門は、フィリップ・オーギュスト時代の城壁より(右岸は)一回り大きい城壁(シャルル5世の城壁)となっていたので、今ここで言っているサントノーレ門と違います。 ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門があったのは、現在のコメディ・フランセーズ(アンドレ・マルロー広場)近く、金色のジャンヌ・ダルク像があるピラミッド広場の少し東です。, ジャン・ジャック・ルソー通り Rue Jean-Jacques Rousseauサントノーレ通りに入った後、すぐルソー通り(北)へ入ります。ルソー通りの52番地にルソーが住んでいたそうですが、これについては数枚後の写真に再度コメントを載せています。 ルソー通りは、ルーヴル通りをはさんで途切れた感じ?になっていますが、番地は続いているようです。, ルソー通りとペリカン通り Rue du Pelican の角。ペリカン通りは、昔、遊郭があったいう通りなんだとか。ルーヴル宮(美術館)やパレ・ロワイヤルに非常に近い位置。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat19 Rue Jean-Jacques Rousseau ルソー通り19番地。ルソー通りの途中で、寄り道。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodatギャラリー・ヴェロ・ドダは、1822年に2人の豚肉加工業者ヴェロとドダが作ったもの。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodatガス灯が逸早く採用され、派手に飾られたアーケード街は大当たりし、店舗は高値で賃貸されたのだそうです。こうしたアーケード街は、19世紀にタイムトリップ、という感じですね。, パリ商品取引所 Bourse de Commerce de Paris南側の壁にはりつくようにして、高さ30mの溝彫りの円柱が1本立っているが、これはカトリーヌ・ド・メディシスのお抱えの占星術師ルッジエリの天文台だったらしい。, ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡13 Rue du Louvre, 75001 Paris商品取引所の前はルーヴル通り。そのルーヴル通りをはさんで商品取引所の斜め向かい側あたりが、ここルーヴル通り13番地。逆光で、写りがいまいちですが、街中に残る、城壁跡 です。, ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡13 Rue du Louvre, 75001 Parisまわりの補強が現代的でいまいちですが、城壁跡をこうして残しているのは良いですね。, ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈la poterne Coquilliere (rue Coquilliere, pres de la rue Jean-Jacques-Rousseau) コクイエール通り(Rue Coquilliere)からルソー通り(Rue Jean-Jacques Rousseau)を見て撮影。商品取引所の左にあるコクイエール通りに入ってきました。 これからは、カーブを描きながら東向きに歩いて行きます。(52 Rue Jean-Jacques Rousseau 手前右の家にルソーが住んでいたのだそうです。), ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈オ・ピエ・ド・コション Au Pied de Cochon黄葉と赤の庇が、なかなかきれいな場所でした。上の写真のすぐ近くで、この写真の目の前あたりに城壁があった、という位置です。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustacheコクイエール通りを東へ行くと、突き当たるのがこの教会です。 レ・アルも近づいてきました。もともと聖女アニェスに奉献された小さな礼拝堂がこの地に建ったのは1214年。 それから数年後に、礼拝堂は聖ウスタッシュに捧げられることになった。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache配置や骨組はゴチック式、装飾はルネサンス式。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustacheミサやコンサートを通してパイプオルガンと聖歌隊の昔ながらの名声が今も保持されている。19世紀には、ベルリオーズとリストがここで彼らの作品の一部を演奏した。, ◆ジュール通り Rue du Jourサン・トゥシュタッシュ教会隣りのジュール通り。 アニエス・ベーがある通りです。ジュール通りは地図を見ると分かりますが、東西南北の軸に対して斜めになっている通りですが、フィリップ・オーギュストの城壁のちょうど内側にあたるようです。, ジュール通り4番地 4 Rue du Jour, 75001 Parisここは、ロワイヨーモン修道院の旧パリ館だったところだそうです。ロワイヨーモン修道院 Abbaye de Royaumont とは、表紙に書いていたロワイヨーモン修道院(パリの北30kmほどのところ)のこと。 聖王ルイが1228年に創設し、1235年に完成した修道院。 行ってみたいのですが、公共交通の便は不便そうなところ。, ジュール通り4番地 4 Rue du Jour, 75001 Parisロワイヨーモン修道院の旧パリ館 と サン・トゥシュタッシュ教会。, ◆ジュール通り Rue du Jourこの通りの9番地に城壁の一部があるとか? フリーダイヤル0120-9610-66受付時間 10:00-18:00フリーダイヤル通話ができない場合047-409-10316コールで2回転送されます。長めにお電話ください。, 金貨買取本舗では金貨,銀貨,コイン,メダル,記念硬貨,金,プラチナを東京都,千葉県,神奈川県,埼玉県,茨城県で高価買取価格を実現!, 金貨買取専門店金貨買取本舗では日頃お買取りでお取り扱いをしている世界のコインをご紹介していきます。今回は19世紀フランス、ナポレオン皇帝についてもお話しましたが100日天下の後に王位についたフランス国王、ルイ=フィリップ1世についてお話いたします。
① まず、上の王朝名と王様の名前が全部言えるようにします。これがこのページの目標です。これを a 歴史上「ルイ=フィリップ1世」と称される人物は2人います。1人は、ブルボン朝の貴族「オルレアン公」ルイ=フィリップ1世。そして、王政復古により復活したブルボン朝が、7月革命によって再び倒された後に、市民に推戴されて王となったルイ=フィリップ1世です。
(写真左手)Au 9 rue du Jour (ancien chemin de ronde intérieur de la muraille qui passait entre la rue J-J Rousseau et la rue du Jour), un morceau de la muraille "découvert" par Arthur Gillette... ( http://www.philippe-auguste.com/ より。), ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈la porte Montmartre(au no 30 de la rue Montmartre, pres de la rue Etienne-Marcel)上のジュール通りをまっすぐ歩くとモンマルトル通りに突き当たり、すぐ左に曲がったところにモンマルトル通り30番地があります。 ここが、モンマルトル門のあったところです。30 Rue Montmartre, 75001 Paris モンマルトル通り30番地。, ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈30 Rue Montmartre, 75001 Parisフィリップ・オーギュストの城壁、モンマルトル門Enceinte de Philippe Auguste、Porte Montmartreここにはちゃんと看板があります! 30番地の上を見上げてください!, ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈30 Rue Montmartre, 75001 Parisモンマルトル通り30-32番地と13-15番地の間にモンマルトル門があったことを示すプレート。今、歩いてきたジュール通り Rue du Jour 通りがプレートの右下に見えます。いったん、ジュール通りからモンマルトル通りを左(北)に曲がりましたが、モンマルトル通りをレ・アルの方へ南下します(写真の地図で右へ)。, モンマルトル通りを南下して、アンパッス・サン・トゥスタッシュ Impasse Saint-Eustache から見える、サン・トゥシュタッシュ教会の袖廊北門。, モンマルトル通り Rue Montmartre から見たレ・アル Les Halles。前方右に見えるのは、サン・トゥシュタッシュ教会の後陣。〜 カペー朝 〜西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。 王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト 1165-1223)の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(後にルーブル宮殿に発展する。)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。 パリ大学は特に神学の研究で著名であった。 右岸に中央市場 「 レ・アル (Les Halles) 」 が作られたもこのころである。 こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 (wikipediaより), サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache の後陣を見上げながら東へ。, テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。モンマルトル通りからテュルビゴ通りに曲がりました。(手前右手に入ると、モネの絵に描かれた モントルグイユ街 Rue Montorgueil)モネが描いたモントルグイユ街はこちら。Claude Monet La rue Montorgueil, à Paris. Fête du 30 juin 1878Musee d'Orsayhttp://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monet-montorgueil.JPG, テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。(赤い庇のJET-LAGの通りが、モントルグイユ街 Rue Montorgueil)(教会に沿う通り、右奥の通りがモンマルトル通り Rue Montmartre), ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris エチエンヌ・マルセル通り20番地。テュルビゴ通りからエチエンヌ・マルセル通りに入りました。エチエンヌ・マルセル通り20番地に残るのが、上部に石落としのついた方形の塔、ジャン・サン・プール(ジャン無畏王)の塔。オルレアン公暗殺のあとブルゴーニュ公ジャン無畏王が1408年にたてたものだが、もとはブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne 、すなわちアルトワ館の一部でフィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)と背中合わせになっていた。地図上で、赤い●印を付けたところが、ジャン・サン・プールの塔がある(おおよその)位置です。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 ParisTour Jean sans Peurhttp://www.tourjeansanspeur.com/先程まで1区(75001)を歩いていましたが、ここで2区(75002)に入りました。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris中に入りたいのですが、今回は先へ急ぎます。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 ParisTOUR DITE DE JEAN SANS PEUR ANCIEN HÔTEL D'ARTOIS ÉLEVÉE SUR LA MURAILLE DE PHILIPPE AUGUSTEジャン・サン・プールの塔、旧アルトワ館、フィリップ・オーギュストの城壁に沿って建てられたちなみに、中に入ると、次のような城壁跡が見られるようです。 ( http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tour_Jean-sans-Peur.base_de_l%27enceinte_de_Philippe-Auguste_vers_1200.jpg?uselang=fr ), ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Parisパリ市のモニュメントに建つ記念版。”ブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne ”ブルゴーニュ館は、ブルゴーニュ公のパリにおける居館のひとつでした。時は、百年戦争時。 ブルゴーニュ派とアルマニャック派がフランスを二分し壮絶な戦いをくりひろげていました。 ブルゴーニュ公ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur)はモーコンセイユ通り Rue Mauconseil (現在ジャン・サン・プールの塔のある1本南の通り)の居館の周囲に濠をめぐらし、戦闘に耐えられるように城塞化。 オテル・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ館)はフィリップ・オーギュストが構築した堅牢な城壁を利用して建てられていました。 ブルゴーニュ公は館の防御をかためるため、古い城壁を修復し、高さ27mもの堅固な塔を構築。 難攻不落の要塞と化し、王の居城でもあるルーヴル宮とオテル・サン・ポール(マレ地区/セレスタン河岸)ににらみをきかせていました。 この要塞にこもってさえいれば、狂気に襲われた王(シャルル6世)が兵をむけてこようとも、あるいは民衆が暴徒と化そうともおそれなくてよい、そうブルゴーニュ公は考えていたそうです。16世紀、ブルゴーニュ館は改築に改築をかさね、聖史劇および受難劇を上演する劇場として使われるようになり、1634年、ルイ13世の治下、王立劇団がこの劇場を本拠地とした。 ピエール・コルネイユの主要な作品、ジャン・ラシーヌのほとんどすべての作品は、この劇場で上演された。 ブルゴーニュ館は、1783年に新オペラ・コミック座が建設されるまで劇場としてつかわれ、その後、この建物は皮革製造の作業場となったが、1853年、エチエンヌ・マルセル通りを敷設するために取り壊された。, テュルビゴ通り Rue Turbigo と サン・ドニ通り Rue Saint Denis の角。次に目指すのは、サン・ドニ通り135番地です。中央右に、黒い庇の MATSUSUSHI(松寿司) と見える通りがサン・ドニ通りで、ここを右(南)に曲がるとすぐに、, サン・ドニ通り Rue Saint-Denisこちらにも、パリ市記念版。”サン・ドニ通り Rue Saint-Denis” は、パリで最も古い通りの一つで、いまでもうす汚い感じの通りだ。 ローマ時代につくられた道路だから真っ直ぐで、パリの中央市場レ・アル Les Halles (現在はオルリー空港近くのランジス Rungis に移転)に通じている。中世のパリでは国王がパリに出入りする場合んは必ずこの道を通るし、また北のサン・ドニ(Saint-Denis)の墓への巡礼のルートに当たり、いわば ”都大路” といったところだった。 当時は巡礼ルートというところから沿道には礼拝堂など宗教的建物が多く、無縁墓地も近くにあるといったぐあいで宗教色が支配的だった。ところが、現在のサン・ドニ通りは、”朝から夜の女が立つ”という有様だから、夜の盛況は推して知るべしである。 サン・ドニのこうした ”変身” は1800年代の後半に中央市場が開設されて以来のことで、朝から女性が商売をするのは ”市場で働くお得意さん” のためだそうだ。(参考:セーヌのほとり/倉田保雄著)参考まで、モネが描いたサン・ドニ通りはこちら。先程紹介した、モントルグイユ街に似た構図です。CLAUDE MONET (1840-1926)Rue Saint-Denis, fête du 30 juin 1878Rouen, musée des Beaux-artshttp://mbarouen.fr/fr/oeuvres/rue-saint-denis-fete-du-30-juin-1878, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈la porte Saint-Denis ou porte aux Peintres (au croisement de la rue Saint-Denis et de l'impasse des Peintres)135 Rue Saint-Denis, 75002 Parisサン・ドニ通り135番地に到着しました。上を見上げてよく見てみてください!ここにサン・ドニ門があったことを示すプレートがあります!, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris サン・ドニ通り135番地。サン・ドニ門があったことを示すプレート。地図を見ると分かりますが、ここは三角形のような形の区画になっていて、この看板をみつけるのに一寸戸惑った場所。 この看板があるのは135番地とは調べていたのですが、「135」という番地プレートがみつからなかったのです。, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈135 Rue Saint-Denis, 75002 Parisサン・ドニ通りの135番地と110-112番地の間にサン・ドニ門があったことが示されています。 地図があると位置関係がとても分かりやすいです。サン・ドニ門はパーントル門とも呼ばれていたそうです。 (パーントルは画家の意、すぐ近くに Impasse des Peintres という道がある。)シャルル5世時代のサン・ドニ門より南に位置します。, パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf145 Rue Saint-Denis, 75002 Paris サン・ドニ通り145番地。サン・ドニ通りを少し北に行くとパッサージュがあるので寄り道。, パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf145 Rue Saint-Denis1825年にグラン=セール(大鹿)小路 Passage du Grand Cerf が開通した。 これは同名の宿屋があった場所で、大革命までは郵便馬車の発着所だった。1960年のルイ・マル監督の映画『地下鉄のザジ Zazie dans le metro』で使われたというパッサージュです。, パッサージュ・グラン・ラベ(Passage du Bourg l'Abbe)サン・ドニ通りをはさんで、左(西)に、パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerfサン・ドニ通りをはさんで、右(東)に、パッサージュ・グラン・ラベ Passage du Bourg l'Abbe がある。パッサージュ・グラン・ラベのサン・ドニ通り側の入口は工事中で、ほとんど人がいなかったです。, オー・ウールス通り Rue aux Oursウールスとは、動物の、熊、の他にスラングで、生理、の意味があるとか。近くに、かつてのパリの有名な娼婦街、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis がある。, オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点 に到着。この写真は、サン・マルタン通りの南側を撮影。まっすぐ南下すると、ポンピドーセンターです。下の写真は、逆向きに撮影しました。, ◆旧サン・マルタン門 Porte Saint-Martin 界隈la porte Saint-Martin (au croisement de la rue Saint-Martin avec la rue du Grenier-Saint-Lazare)オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点。この写真は、サン・マルタン通りの北側を撮影。ちなみに、サン・マルタンというのは、現在一般的にトゥールのマルティヌスと呼ばれる聖人のこと。 316年ごろ、ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア生まれ。 ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊。 所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアンに派遣された時、「マントの伝説」が起こる。 ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。 彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。 この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。 ・・ トゥールの司教となったサン・マルタン(マルティヌス)は町の北からパリに入った。 信者たちは、この司教のマントに触れようと先を争った。 サン・マルタンの目は群衆ではなく、北の城門のそばで城壁に背をもたせかけている癩病人にむけられていた。 司教は癩病人のほうに身をかがめ、頬に接吻したあと、男の頭に両手をおいて祝福をあたえた。 翌日、病人は歩いて教会に入っていった。・・サン・マルタンが癩病人を癒したところ、パリ北部のローマ時代の道、それが現在の サン・マルタン通り 、なのだそうです。ここは、サン・マルタン通りの西(写真左側)がオー・ウールス通り、東(写真右側)がグルニエ・サン・ラザール通り、となる地点で、1本の道なのに、右と左で名前が変わるややこしい地点なのですが、グルニエ・サン・ラザール通りとサン・マルタン通りの交わるあたりにサン・マルタン門があったみたいなので、おそらくこのあたりに ”サン・マルタン門” があった、と思われます。後の、シャルル5世の城壁時代(ブールヴァールという道路に城壁跡ルートの名残)のサン・マルタン門より、やや南側に位置します。写真右手にホテル・ジョルジェットという名のホテルがあるので、目印に。, Rue de Montmorency モンモレンシー通りグルニエ・サン・ラザール通りのすぐ北に並行する通り、モンモレンシー通りに入ります。このあたりが今日歩くルートの中で一番北側に位置する通りです。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Paris2区(75002)から、3区(75003)に入りました。3区、モンモレンシー通り51番地。 ここは、正確に言うと、上記サン・マルタン門のすぐ外に位置する(中世/15世紀初頭につくられた)民家だったらしい。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisこの家は、昔から、パリで二番目に古いとされていた。建築物というのは、過去のオリジナルなデザインが踏襲されたレプリカが同じ場所に建てられることが少なくない。 パリの場合も同じ問題があった。パリ3区ヴォルタ通り Rue Volta 3番地の「パリで一番古い」といわれた建物が、13世紀の遺物ではなく、1644年にパリ市民が中世の様式を真似て建て替えたという事実が当時の事実から判明したのだ(1979年)。その結果、にわかに注目を集めることとなったのが、パリで二番目に古いとされる同じ3区の「ニコラ・フラメルの家」だった。(以下、ニコラ・フラメルの家に関して、参考:パリの秘密/鹿島茂著), ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisニコラ・フラメル(1330-1418)というのは、一介のパリ大学書記であったにもかかわらず、施療院や教会の莫大な額の寄付を行ったことから、錬金術師だったのではないかと噂された人物で、隠秘学の匿名の著作はしばしば彼の作とされる。このニコラ・フラメルが晩年に住んでいたのがモンモランシー通り51番地の家。 その跡を訪ねると、番地の上に 「 ニコラ・フラメルとその妻ペルネルの家 彼らの慈善事業の思い出を保存するため、パリ市は1407年に刻まれた最初の碑銘を1900年に修復した 」 というプレートが嵌められている。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisたしかに、一階入口の框(かまち)には 「 勤倹なるわれわれ夫妻は、1407年に建てられたこの家の玄関に住み、神に罪の許しを乞いながら、日々、主のアヴェ・マリアを唱えて過ごした。 アーメン 」 という言葉が中世フランス語で刻まれている。しかし、見るべきは、ファサードの門柱に刻まれた、いかにも中世の錬金術師らし薄浮き彫り。 ヘルメス学やオカルティズムの神秘をあらわうようなニコラ・フラメルの頭文字、それに天使の像や謎の文様が、われわれを一気に中世に運ぶ。 この薄浮き彫りは、1929年に積年の汚れを落とされ、蘇ったということだが、それからすでに76年を経ているためか、再び真っ黒に汚れて、中世の雰囲気を効果的に演出している。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Paris建物自体も修復されたらしく、数カ所に鉄骨で補強がなされているが、いまでも、民家として使われ、ちゃんと人が住んでいるのは立派。 一階には「オーベルジュ・ニコラ・フラメル」というレストランが入居し、窓からのぞくと、錬金術風の命名がなされたメニューが見える。 ・・, 『右岸編1』で歩いた”城壁跡”を地図で見るとこんな感じになります!A コワンの塔(フランソワ・ミッテラン河岸)B サントノーレ門(オラトワール教会前)C ルーヴル通り13番地D モンマルトル門(モンマルトル通り30番地)E サン・ドニ門(サン・ドニ通り135番地)F サン・マルタン門(サン・マルタン通り/グルニエ・サン・ラザール通り)-------------------------------------------------写真が多くなりますので、この後の右岸散歩は、『 パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩 (右岸編2) 』http://4travel.jp/travelogue/10942606 につづきます。次は、マレ地区(4区)の方へ歩いていきます!『 右岸編1 』 は、主に1?3区の商業エリアの散歩だったので、インパクトはいまいちだったかもしれませんが、私の今回のパリ滞在でのテーマ【 なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、 中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい! 】を達成するためには、ここも必要不可欠の部分だったので、記録しました。* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Mapshttps://goo.gl/1Rce1Y-------------------------------------------------, 利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 ブルボン家の分家オルレアン家出身で、1830年に七月革命によって国王に即位した。その七月王政はブルジョワジーの利益を最優先するものだった。1848年、二月革命が起こり、イギリス … シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe, 1874年8月4日 - 1909年12月21日)は、フランスの作家。 浅草 天丼 大黒屋 持ち帰り,
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よりやや大きい程度であった。)・ 当時の住民は12万人(または20万人)と言われている。 城壁が、この12万人の住居のみならず、付属の草地もぶどう畑も、作業の小屋さえも包み込んだ。------------------------------------------------- 右岸編1(10/11) http://4travel.jp/travelogue/10942604右岸編2(10/11) http://4travel.jp/travelogue/10942606左岸編1(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942608左岸編2(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942609城壁内編(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942610まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612, フィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)の跡を巡る、パリのお散歩。この地図は、その城壁跡を巡りながら散歩をするにあたり、自分が見たい場所の最低限を見てまわるには、どれくらいかかるのだろう?と思いながら、旅行前に、Google Mapで(徒歩)計測してみた感じです。このように、さくさくと歩けば、(現代の道を使えば)おおよそ「 7.2km 1時間31分 」 だということが分かりました。, そして、こちらは、実際に歩いた感じをGoogle Mapにマーカーした地図。城壁跡周辺のおもしろそうなところに” 寄り道しながら ” 歩いたのでこのようになりました。* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Mapshttps://goo.gl/1Rce1Y 右岸(上:10/11)と左岸(下:10/13)は、それぞれ日を分けて歩いたのですが・・実際に歩いた時間は、右岸:13:30頃から約2時間半?3時間、左岸9:00から約4時間、 でした。, フィリップ・オーギュスト時代のパリの城壁(Enceinte-philippe-auguste-1223-paris wikimediaより)-------------------------------------------------まず、この日(10/11・土)は、次のように動きました。□朝一で、パリの北近郊にあるサン・ドニ大聖堂へ。□12時前に、モンマルトルのブドウ収穫祭のセレモニーへ。■13時半頃から、フィリップ・オーギュストの城壁を歩く(右岸編)。□17時過ぎ〜、アベス駅付近でモンマルトルのブドウ収穫祭パレード見学。□21時45分〜、サクレクール寺院前でモンマルトルのブドウ収穫祭の花火見学。なかなかタイトなスケジュールの1日ですが、夕方以降は、そんなに歩きまわらず、一箇所で見学する、というような内容(パレード&花火)なので、とりあえず今は、この 『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 を頑張りたいと思います。まず、今日は、城壁があった右岸の西端(セーヌ川沿い)から半円を描くように歩いていきたいと考えています。 (※この地図の上の半円部分がセーヌ右岸)矢印で表すなら、こんな感じで歩きます。 → → ↑ ↓16時頃にサン・ルイ島でちょっと用事があるので、その時間を目指して、城壁のあった右岸の東端(セーヌ川沿い)まで歩きます。-------------------------------------------------, まずは、ルーヴル・リヴォリ駅で降りた後、通りがかって1枚撮影。サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois2 Place du Louvre, 75001 Parisここで祀られている聖ジェルマン(聖ゲルマヌス)は、ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセール司教。 サン・ジェルマン・デ・プレ教会の守護聖人、パリの聖ジェルマンとは違います。ヴァロワ王家が14世紀にルーヴル宮を居城にしたため、この教会がフランス国王の教区教会となり、歴代の国王がここで彩色に臨んだばかりでなく、聖堂の装飾に出資したり、寄進を行ったりした。1572年8月24日の晩に鳴り響いた朝課の鐘の音は、サン・バルテルミーの虐殺の合図となった。 (※この事件については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。), ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り スタート地点!!! ≫≫≫◆旧コワンの塔 Tour du Coin 界隈(現在のフランソワ・ミッテラン河岸、ポンデザール、ルーヴル美術館近く。)la Tour du coin, rive droite, tout près du Louvre (quai François-Mitterrand) セーヌ川沿い、ルーヴル美術館横、フランソワ・ミッテラン河岸に到着。このあたりに、コワンの塔 Tour du Coin があったようです。フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste) (地図は、Atlas historique de Parisより、以下地図も同。)http://paris-atlas-historique.fr/50.htmlhttp://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf, ルーヴル城塞とコワンの塔(左:右岸)と 対岸のネールの塔(右:左岸)( Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_et_hotel_de_Nesle_face_au_Louvre wikimediaより )セーヌに2つの小さな島が見えますが、シテ島の先っぽにこのような小さな島があったそうです。 上に小さく先端が見えるのがシテ島です。 ここにはないですが、シテ島の隣りのサン・ルイ島も2つに分かれていました。, ルーヴル城塞とコワンの塔(右)( Le rempart du Louvre le long de la Seine avec la tour du coin a droite. 本の中では、”フィリップ・オーギュストの城壁の壁さがし” という記事とともに ”パリにあったフィリップ・オーギュストの城壁の跡が記された地図” が載っていたのですが、この地図を見ていて、 【なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、 5.ルイ十三世の壁 宗教戦争が一段落すると、ルイ十三世(在位1610~43年)は長いあいだ放置されていた新城壁の問題を取りあげる。新城壁は、シャルル九世(在位1560~73年)が着工する。 Copyright(c) forTravel, Inc. All rights reserved. ルイ=フィリップ1世の発行されたナポレオン金貨の額面は20フラン金貨と40フラン金貨のみでしたが、試作金貨の100フランと実際は銀貨で発行するものを金打ちをした1フラン試鋳金貨が存在します。100フラン金貨は数百万という価値があるようです。試作金貨が再びオークション市場に出たときの価格は今保有しているかたが手放したいと思う価格ですよね。プルーフ型アンティークコインにも価値が多く生まれますが試鋳金貨のなかでもパターン貨のみでこの世に出回ることがなかったこちらのコイン、今は世界のどこで大切に歴史を刻んでいるのでしょうか? フランス最安 金貨買取本舗では海外金貨を高価買取中!プレミアのつく金貨は買取価格より別途査定価格がアップされます。お持ちの外国金貨はどれくらいの価格になるのか、価値が気になるかたはぜひ無料査定をご利用下さい。価格表にないコインもお買取りいたします。. ルイ=フィリップ1世(フランス語: Louis-Philippe I er 、1773年 10月6日 - 1850年 8月26日)は、オルレアン朝のフランス国王(在位: 1830年 - 1848年)。 爵位はヴァロワ公爵、シャルトル公爵、ヌムール公爵、オルレアン公爵など。 フォートラベルポイントって?, フォートラベル GLOBAL WiFiなら シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe, 1874年8月4日 - 1909年12月21日)は、フランスの作家。, フランス中部アリエ県のセリー(フランス語版)に木靴屋の息子として生まれる[1]。1891年に科学系バカロレアを取得し、パリに出てグランゼコール受験準備に努めていたが(志望校は理系最難関校のエコール・ポリテクニークとエコール・サントラル・パリ)[1]、病弱であったことも災いして不合格を繰り返し、学業を断念した[2]。その後、パリ第4区の区役所に勤めた。当時社会芸術運動を提唱していた『ランクロ』誌の同人となり、ディケンズ、ドストエフスキー、トルストイなどの影響のもとに、多くの作品を発表する。始めは高踏主義的な作風に惹かれるが、やがて貧しい庶民の生活を瑞々しい感覚で描くようになった。その作風は写実的ではあるが、民衆への温かい理解が行き渡っており、当時の自然主義作家の作風とは対極をなしている。独特の神韻縹渺な世界はジッド、ジロドゥなどにも高く評価され、日本でも堀口大學、淀野隆三らによって翻訳・紹介された。太宰治は、「かれ(フィリップ)こそ、厳粛なる半面の大文豪。世をのがれ、ひっそり暮した風流隠士のたぐいではなかった。三十四歳(原文ママ)で死したるかれには、大作家五十歳六十歳のあの傍若無人のマンネリズムの堆積が、無かったので、人は、かれの、ユーゴー、バルザックにも劣らぬ巨匠たる貫禄を見失い、或る勇猛果敢の日本の男は、かれをカナリヤとさえ呼んでいた」[3]と評している。, 髄膜炎に腸チフスを併発し、35歳の若さで死去[4]。故郷セリーの墓地に埋葬された。墓石のシャルル=ルイ・フィリップ像はアントワーヌ・ブールデル作である[5]。, 代表作に『ビュビュ・ド・モンパルナス』(1901年)、没後出版された短編集『小さな町で』(1910年)などがある。『ビュビュ・ド・モンパルナス』は1971年にマウロ・ボロニーニ監督により映画化された。映画の邦題は、同年、山崎剛太郎の翻訳として刊行された邦題『愛すれど哀しく』による。, Tombeau de Charles-Louis-Philippe – Cérilly, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=シャルル=ルイ・フィリップ&oldid=76977577, 『フィリップの本 - 小さな町の人々』小牧近江訳、山の木書店、1950年; アルス日本児童文庫刊行会(日本児童文庫)1958年(一、フィリップのお母さん(わが家 / 学校 / 病氣 / お母さん)二、フィリップの友だち(乳母車 / 小さな弟 / アリス / つむじまがり / 手まり / ずる休み / 聖水 / 火遊び / 鉄砲うち / 仔犬)三、小さな町の人々(小さな町 / お說敎 / 降誕 / ある一生 / 二人のこじき / 箱入娘 / ゴティエさん)), 淀野隆三訳『朝のコント』岩波書店(岩波文庫)1961年(チエンヌの女房の足 / バタの中の猫 / ロメオとジュリエット / 小犬 / 二人のならずもの / めぐりあい / 来訪 / ライオン狩り / 食人種の話 / マッチ / ほどこし / サタンの敗北 / 遺言 / 恋の一ページ / やきもち娘 / のんだくれ / 告白 - サルペトリエール精神病院の一患者から見出された手記 / 来訪者 / 人殺し / チエンヌ / ぬけやすみ / 純情なひとたち / 友達同士で / 三人の死刑囚), (ビュビュ・ド・モンパルナッス / 火つけ / 帰宅 / 二人の隣人 / 片意地な娘 / 弟 / アリス), 石川湧訳注『フィリップ短篇選集』(対訳)第三書房、1956年(荷車 / 老人の死 / ある生涯 / バタの中の猫 / ロメオとジュリエット / めぐりあい), 新潮社『フィリップ全集』(全3巻)(第1巻:小牧近江他訳、第2巻:吉江喬松他訳、第3巻:山内義雄他訳)1929-1930年. ナポレオン3世(第二帝政) ・普仏戦争敗戦 ↓ <第三共和制> 全体像. EUR 39.0~, リヴォリ通り Rue de Rivoli へ出ました。 (市庁舎 Hotel de Ville 側を撮影), オラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre 後陣側ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)をリヴォリ通り Rue de Rivoli へ抜けると、すぐに(リヴォリ通り沿いに)オラトワール教会の後陣が見えます。その、オラトワール教会の後陣側には、”コリニー提督の像”があります。コリニー提督 Gaspard de Coligny (宗教戦争期の新教徒軍指導者)は聖バルテルミーの大虐殺(1572年8月24日)の夜に殺され、この近くにあった自邸の窓から投出されたという人。16世紀には、オラトワール教会の地には、ガブリエル・デストレの館が立っていたそうです。 ある日この美しい愛妾を訪ねてきたアンリ4世は19歳の旧教同名員シャテルに襲われ、短刀で顔を切られた。 男は翌々日グレーヴ広場(現市庁舎前広場)で四つ裂きの刑を受けた。1616年、ベリュル枢機卿により創設されたばかりのオラトリオ会がこの地に居を定め、ル・メルシエの設計により礼拝堂(1621〜30)を建立させた。 建物はルイ13世の計画に従えば、ルーヴル宮の一部になるはずであった。 そして、事実、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世時代には王宮礼拝堂となった。(※先程1枚、次にも1枚写真を載せたサン・ジェルマン・ロクセロワ教会で起った聖バルテルミーの事件やコリニー提督については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。), リヴォリ通り越しに振り返ると、メトロ駅を降りて一番初めに撮った(聖バルテルミー事件で有名な)サン・ジェルマン・ロクセロワ教会が見えます。右に見えるのは、ルーヴル美術館の東端の建物。, オラトワール通り(Rue de l'Oratoire)を北へ。左に見えるのがオラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre です。145 Rue Saint Honore, 75001 Paris, ◆旧サントノーレ門 Porte Saint-Honore 界隈la porte Saint-Honore (au no 148 de la rue Saint-Honore, au niveau de la rue de l'Oratoire) 148 Rue Saint Honore, 75001 Parisオラトワール通りから見た(突き当たりの建物の通りが)サントーレ通り Rue Saint Honore。これから突き当たりを左に曲がりますが、左入ってすぐにオラトワール教会の正面(サントノーレ通り145番地)があり、その向かいが148番地。 そこに、サントノーレ門があったそうです。すなわち、ここに見える通りの右側は、”城壁内”だったというわけ。※ちなみに、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクがパリ攻撃の際、サントノーレ門あたりで負傷した、という歴史がありますが、ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門は、フィリップ・オーギュスト時代の城壁より(右岸は)一回り大きい城壁(シャルル5世の城壁)となっていたので、今ここで言っているサントノーレ門と違います。 ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門があったのは、現在のコメディ・フランセーズ(アンドレ・マルロー広場)近く、金色のジャンヌ・ダルク像があるピラミッド広場の少し東です。, ジャン・ジャック・ルソー通り Rue Jean-Jacques Rousseauサントノーレ通りに入った後、すぐルソー通り(北)へ入ります。ルソー通りの52番地にルソーが住んでいたそうですが、これについては数枚後の写真に再度コメントを載せています。 ルソー通りは、ルーヴル通りをはさんで途切れた感じ?になっていますが、番地は続いているようです。, ルソー通りとペリカン通り Rue du Pelican の角。ペリカン通りは、昔、遊郭があったいう通りなんだとか。ルーヴル宮(美術館)やパレ・ロワイヤルに非常に近い位置。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat19 Rue Jean-Jacques Rousseau ルソー通り19番地。ルソー通りの途中で、寄り道。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodatギャラリー・ヴェロ・ドダは、1822年に2人の豚肉加工業者ヴェロとドダが作ったもの。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodatガス灯が逸早く採用され、派手に飾られたアーケード街は大当たりし、店舗は高値で賃貸されたのだそうです。こうしたアーケード街は、19世紀にタイムトリップ、という感じですね。, パリ商品取引所 Bourse de Commerce de Paris南側の壁にはりつくようにして、高さ30mの溝彫りの円柱が1本立っているが、これはカトリーヌ・ド・メディシスのお抱えの占星術師ルッジエリの天文台だったらしい。, ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡13 Rue du Louvre, 75001 Paris商品取引所の前はルーヴル通り。そのルーヴル通りをはさんで商品取引所の斜め向かい側あたりが、ここルーヴル通り13番地。逆光で、写りがいまいちですが、街中に残る、城壁跡 です。, ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡13 Rue du Louvre, 75001 Parisまわりの補強が現代的でいまいちですが、城壁跡をこうして残しているのは良いですね。, ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈la poterne Coquilliere (rue Coquilliere, pres de la rue Jean-Jacques-Rousseau) コクイエール通り(Rue Coquilliere)からルソー通り(Rue Jean-Jacques Rousseau)を見て撮影。商品取引所の左にあるコクイエール通りに入ってきました。 これからは、カーブを描きながら東向きに歩いて行きます。(52 Rue Jean-Jacques Rousseau 手前右の家にルソーが住んでいたのだそうです。), ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈オ・ピエ・ド・コション Au Pied de Cochon黄葉と赤の庇が、なかなかきれいな場所でした。上の写真のすぐ近くで、この写真の目の前あたりに城壁があった、という位置です。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustacheコクイエール通りを東へ行くと、突き当たるのがこの教会です。 レ・アルも近づいてきました。もともと聖女アニェスに奉献された小さな礼拝堂がこの地に建ったのは1214年。 それから数年後に、礼拝堂は聖ウスタッシュに捧げられることになった。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache配置や骨組はゴチック式、装飾はルネサンス式。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustacheミサやコンサートを通してパイプオルガンと聖歌隊の昔ながらの名声が今も保持されている。19世紀には、ベルリオーズとリストがここで彼らの作品の一部を演奏した。, ◆ジュール通り Rue du Jourサン・トゥシュタッシュ教会隣りのジュール通り。 アニエス・ベーがある通りです。ジュール通りは地図を見ると分かりますが、東西南北の軸に対して斜めになっている通りですが、フィリップ・オーギュストの城壁のちょうど内側にあたるようです。, ジュール通り4番地 4 Rue du Jour, 75001 Parisここは、ロワイヨーモン修道院の旧パリ館だったところだそうです。ロワイヨーモン修道院 Abbaye de Royaumont とは、表紙に書いていたロワイヨーモン修道院(パリの北30kmほどのところ)のこと。 聖王ルイが1228年に創設し、1235年に完成した修道院。 行ってみたいのですが、公共交通の便は不便そうなところ。, ジュール通り4番地 4 Rue du Jour, 75001 Parisロワイヨーモン修道院の旧パリ館 と サン・トゥシュタッシュ教会。, ◆ジュール通り Rue du Jourこの通りの9番地に城壁の一部があるとか? フリーダイヤル0120-9610-66受付時間 10:00-18:00フリーダイヤル通話ができない場合047-409-10316コールで2回転送されます。長めにお電話ください。, 金貨買取本舗では金貨,銀貨,コイン,メダル,記念硬貨,金,プラチナを東京都,千葉県,神奈川県,埼玉県,茨城県で高価買取価格を実現!, 金貨買取専門店金貨買取本舗では日頃お買取りでお取り扱いをしている世界のコインをご紹介していきます。今回は19世紀フランス、ナポレオン皇帝についてもお話しましたが100日天下の後に王位についたフランス国王、ルイ=フィリップ1世についてお話いたします。
① まず、上の王朝名と王様の名前が全部言えるようにします。これがこのページの目標です。これを a 歴史上「ルイ=フィリップ1世」と称される人物は2人います。1人は、ブルボン朝の貴族「オルレアン公」ルイ=フィリップ1世。そして、王政復古により復活したブルボン朝が、7月革命によって再び倒された後に、市民に推戴されて王となったルイ=フィリップ1世です。
(写真左手)Au 9 rue du Jour (ancien chemin de ronde intérieur de la muraille qui passait entre la rue J-J Rousseau et la rue du Jour), un morceau de la muraille "découvert" par Arthur Gillette... ( http://www.philippe-auguste.com/ より。), ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈la porte Montmartre(au no 30 de la rue Montmartre, pres de la rue Etienne-Marcel)上のジュール通りをまっすぐ歩くとモンマルトル通りに突き当たり、すぐ左に曲がったところにモンマルトル通り30番地があります。 ここが、モンマルトル門のあったところです。30 Rue Montmartre, 75001 Paris モンマルトル通り30番地。, ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈30 Rue Montmartre, 75001 Parisフィリップ・オーギュストの城壁、モンマルトル門Enceinte de Philippe Auguste、Porte Montmartreここにはちゃんと看板があります! 30番地の上を見上げてください!, ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈30 Rue Montmartre, 75001 Parisモンマルトル通り30-32番地と13-15番地の間にモンマルトル門があったことを示すプレート。今、歩いてきたジュール通り Rue du Jour 通りがプレートの右下に見えます。いったん、ジュール通りからモンマルトル通りを左(北)に曲がりましたが、モンマルトル通りをレ・アルの方へ南下します(写真の地図で右へ)。, モンマルトル通りを南下して、アンパッス・サン・トゥスタッシュ Impasse Saint-Eustache から見える、サン・トゥシュタッシュ教会の袖廊北門。, モンマルトル通り Rue Montmartre から見たレ・アル Les Halles。前方右に見えるのは、サン・トゥシュタッシュ教会の後陣。〜 カペー朝 〜西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。 王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト 1165-1223)の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(後にルーブル宮殿に発展する。)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。 パリ大学は特に神学の研究で著名であった。 右岸に中央市場 「 レ・アル (Les Halles) 」 が作られたもこのころである。 こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 (wikipediaより), サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache の後陣を見上げながら東へ。, テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。モンマルトル通りからテュルビゴ通りに曲がりました。(手前右手に入ると、モネの絵に描かれた モントルグイユ街 Rue Montorgueil)モネが描いたモントルグイユ街はこちら。Claude Monet La rue Montorgueil, à Paris. Fête du 30 juin 1878Musee d'Orsayhttp://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monet-montorgueil.JPG, テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。(赤い庇のJET-LAGの通りが、モントルグイユ街 Rue Montorgueil)(教会に沿う通り、右奥の通りがモンマルトル通り Rue Montmartre), ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris エチエンヌ・マルセル通り20番地。テュルビゴ通りからエチエンヌ・マルセル通りに入りました。エチエンヌ・マルセル通り20番地に残るのが、上部に石落としのついた方形の塔、ジャン・サン・プール(ジャン無畏王)の塔。オルレアン公暗殺のあとブルゴーニュ公ジャン無畏王が1408年にたてたものだが、もとはブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne 、すなわちアルトワ館の一部でフィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)と背中合わせになっていた。地図上で、赤い●印を付けたところが、ジャン・サン・プールの塔がある(おおよその)位置です。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 ParisTour Jean sans Peurhttp://www.tourjeansanspeur.com/先程まで1区(75001)を歩いていましたが、ここで2区(75002)に入りました。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris中に入りたいのですが、今回は先へ急ぎます。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 ParisTOUR DITE DE JEAN SANS PEUR ANCIEN HÔTEL D'ARTOIS ÉLEVÉE SUR LA MURAILLE DE PHILIPPE AUGUSTEジャン・サン・プールの塔、旧アルトワ館、フィリップ・オーギュストの城壁に沿って建てられたちなみに、中に入ると、次のような城壁跡が見られるようです。 ( http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tour_Jean-sans-Peur.base_de_l%27enceinte_de_Philippe-Auguste_vers_1200.jpg?uselang=fr ), ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Parisパリ市のモニュメントに建つ記念版。”ブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne ”ブルゴーニュ館は、ブルゴーニュ公のパリにおける居館のひとつでした。時は、百年戦争時。 ブルゴーニュ派とアルマニャック派がフランスを二分し壮絶な戦いをくりひろげていました。 ブルゴーニュ公ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur)はモーコンセイユ通り Rue Mauconseil (現在ジャン・サン・プールの塔のある1本南の通り)の居館の周囲に濠をめぐらし、戦闘に耐えられるように城塞化。 オテル・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ館)はフィリップ・オーギュストが構築した堅牢な城壁を利用して建てられていました。 ブルゴーニュ公は館の防御をかためるため、古い城壁を修復し、高さ27mもの堅固な塔を構築。 難攻不落の要塞と化し、王の居城でもあるルーヴル宮とオテル・サン・ポール(マレ地区/セレスタン河岸)ににらみをきかせていました。 この要塞にこもってさえいれば、狂気に襲われた王(シャルル6世)が兵をむけてこようとも、あるいは民衆が暴徒と化そうともおそれなくてよい、そうブルゴーニュ公は考えていたそうです。16世紀、ブルゴーニュ館は改築に改築をかさね、聖史劇および受難劇を上演する劇場として使われるようになり、1634年、ルイ13世の治下、王立劇団がこの劇場を本拠地とした。 ピエール・コルネイユの主要な作品、ジャン・ラシーヌのほとんどすべての作品は、この劇場で上演された。 ブルゴーニュ館は、1783年に新オペラ・コミック座が建設されるまで劇場としてつかわれ、その後、この建物は皮革製造の作業場となったが、1853年、エチエンヌ・マルセル通りを敷設するために取り壊された。, テュルビゴ通り Rue Turbigo と サン・ドニ通り Rue Saint Denis の角。次に目指すのは、サン・ドニ通り135番地です。中央右に、黒い庇の MATSUSUSHI(松寿司) と見える通りがサン・ドニ通りで、ここを右(南)に曲がるとすぐに、, サン・ドニ通り Rue Saint-Denisこちらにも、パリ市記念版。”サン・ドニ通り Rue Saint-Denis” は、パリで最も古い通りの一つで、いまでもうす汚い感じの通りだ。 ローマ時代につくられた道路だから真っ直ぐで、パリの中央市場レ・アル Les Halles (現在はオルリー空港近くのランジス Rungis に移転)に通じている。中世のパリでは国王がパリに出入りする場合んは必ずこの道を通るし、また北のサン・ドニ(Saint-Denis)の墓への巡礼のルートに当たり、いわば ”都大路” といったところだった。 当時は巡礼ルートというところから沿道には礼拝堂など宗教的建物が多く、無縁墓地も近くにあるといったぐあいで宗教色が支配的だった。ところが、現在のサン・ドニ通りは、”朝から夜の女が立つ”という有様だから、夜の盛況は推して知るべしである。 サン・ドニのこうした ”変身” は1800年代の後半に中央市場が開設されて以来のことで、朝から女性が商売をするのは ”市場で働くお得意さん” のためだそうだ。(参考:セーヌのほとり/倉田保雄著)参考まで、モネが描いたサン・ドニ通りはこちら。先程紹介した、モントルグイユ街に似た構図です。CLAUDE MONET (1840-1926)Rue Saint-Denis, fête du 30 juin 1878Rouen, musée des Beaux-artshttp://mbarouen.fr/fr/oeuvres/rue-saint-denis-fete-du-30-juin-1878, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈la porte Saint-Denis ou porte aux Peintres (au croisement de la rue Saint-Denis et de l'impasse des Peintres)135 Rue Saint-Denis, 75002 Parisサン・ドニ通り135番地に到着しました。上を見上げてよく見てみてください!ここにサン・ドニ門があったことを示すプレートがあります!, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris サン・ドニ通り135番地。サン・ドニ門があったことを示すプレート。地図を見ると分かりますが、ここは三角形のような形の区画になっていて、この看板をみつけるのに一寸戸惑った場所。 この看板があるのは135番地とは調べていたのですが、「135」という番地プレートがみつからなかったのです。, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈135 Rue Saint-Denis, 75002 Parisサン・ドニ通りの135番地と110-112番地の間にサン・ドニ門があったことが示されています。 地図があると位置関係がとても分かりやすいです。サン・ドニ門はパーントル門とも呼ばれていたそうです。 (パーントルは画家の意、すぐ近くに Impasse des Peintres という道がある。)シャルル5世時代のサン・ドニ門より南に位置します。, パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf145 Rue Saint-Denis, 75002 Paris サン・ドニ通り145番地。サン・ドニ通りを少し北に行くとパッサージュがあるので寄り道。, パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf145 Rue Saint-Denis1825年にグラン=セール(大鹿)小路 Passage du Grand Cerf が開通した。 これは同名の宿屋があった場所で、大革命までは郵便馬車の発着所だった。1960年のルイ・マル監督の映画『地下鉄のザジ Zazie dans le metro』で使われたというパッサージュです。, パッサージュ・グラン・ラベ(Passage du Bourg l'Abbe)サン・ドニ通りをはさんで、左(西)に、パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerfサン・ドニ通りをはさんで、右(東)に、パッサージュ・グラン・ラベ Passage du Bourg l'Abbe がある。パッサージュ・グラン・ラベのサン・ドニ通り側の入口は工事中で、ほとんど人がいなかったです。, オー・ウールス通り Rue aux Oursウールスとは、動物の、熊、の他にスラングで、生理、の意味があるとか。近くに、かつてのパリの有名な娼婦街、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis がある。, オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点 に到着。この写真は、サン・マルタン通りの南側を撮影。まっすぐ南下すると、ポンピドーセンターです。下の写真は、逆向きに撮影しました。, ◆旧サン・マルタン門 Porte Saint-Martin 界隈la porte Saint-Martin (au croisement de la rue Saint-Martin avec la rue du Grenier-Saint-Lazare)オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点。この写真は、サン・マルタン通りの北側を撮影。ちなみに、サン・マルタンというのは、現在一般的にトゥールのマルティヌスと呼ばれる聖人のこと。 316年ごろ、ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア生まれ。 ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊。 所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアンに派遣された時、「マントの伝説」が起こる。 ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。 彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。 この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。 ・・ トゥールの司教となったサン・マルタン(マルティヌス)は町の北からパリに入った。 信者たちは、この司教のマントに触れようと先を争った。 サン・マルタンの目は群衆ではなく、北の城門のそばで城壁に背をもたせかけている癩病人にむけられていた。 司教は癩病人のほうに身をかがめ、頬に接吻したあと、男の頭に両手をおいて祝福をあたえた。 翌日、病人は歩いて教会に入っていった。・・サン・マルタンが癩病人を癒したところ、パリ北部のローマ時代の道、それが現在の サン・マルタン通り 、なのだそうです。ここは、サン・マルタン通りの西(写真左側)がオー・ウールス通り、東(写真右側)がグルニエ・サン・ラザール通り、となる地点で、1本の道なのに、右と左で名前が変わるややこしい地点なのですが、グルニエ・サン・ラザール通りとサン・マルタン通りの交わるあたりにサン・マルタン門があったみたいなので、おそらくこのあたりに ”サン・マルタン門” があった、と思われます。後の、シャルル5世の城壁時代(ブールヴァールという道路に城壁跡ルートの名残)のサン・マルタン門より、やや南側に位置します。写真右手にホテル・ジョルジェットという名のホテルがあるので、目印に。, Rue de Montmorency モンモレンシー通りグルニエ・サン・ラザール通りのすぐ北に並行する通り、モンモレンシー通りに入ります。このあたりが今日歩くルートの中で一番北側に位置する通りです。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Paris2区(75002)から、3区(75003)に入りました。3区、モンモレンシー通り51番地。 ここは、正確に言うと、上記サン・マルタン門のすぐ外に位置する(中世/15世紀初頭につくられた)民家だったらしい。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisこの家は、昔から、パリで二番目に古いとされていた。建築物というのは、過去のオリジナルなデザインが踏襲されたレプリカが同じ場所に建てられることが少なくない。 パリの場合も同じ問題があった。パリ3区ヴォルタ通り Rue Volta 3番地の「パリで一番古い」といわれた建物が、13世紀の遺物ではなく、1644年にパリ市民が中世の様式を真似て建て替えたという事実が当時の事実から判明したのだ(1979年)。その結果、にわかに注目を集めることとなったのが、パリで二番目に古いとされる同じ3区の「ニコラ・フラメルの家」だった。(以下、ニコラ・フラメルの家に関して、参考:パリの秘密/鹿島茂著), ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisニコラ・フラメル(1330-1418)というのは、一介のパリ大学書記であったにもかかわらず、施療院や教会の莫大な額の寄付を行ったことから、錬金術師だったのではないかと噂された人物で、隠秘学の匿名の著作はしばしば彼の作とされる。このニコラ・フラメルが晩年に住んでいたのがモンモランシー通り51番地の家。 その跡を訪ねると、番地の上に 「 ニコラ・フラメルとその妻ペルネルの家 彼らの慈善事業の思い出を保存するため、パリ市は1407年に刻まれた最初の碑銘を1900年に修復した 」 というプレートが嵌められている。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisたしかに、一階入口の框(かまち)には 「 勤倹なるわれわれ夫妻は、1407年に建てられたこの家の玄関に住み、神に罪の許しを乞いながら、日々、主のアヴェ・マリアを唱えて過ごした。 アーメン 」 という言葉が中世フランス語で刻まれている。しかし、見るべきは、ファサードの門柱に刻まれた、いかにも中世の錬金術師らし薄浮き彫り。 ヘルメス学やオカルティズムの神秘をあらわうようなニコラ・フラメルの頭文字、それに天使の像や謎の文様が、われわれを一気に中世に運ぶ。 この薄浮き彫りは、1929年に積年の汚れを落とされ、蘇ったということだが、それからすでに76年を経ているためか、再び真っ黒に汚れて、中世の雰囲気を効果的に演出している。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Paris建物自体も修復されたらしく、数カ所に鉄骨で補強がなされているが、いまでも、民家として使われ、ちゃんと人が住んでいるのは立派。 一階には「オーベルジュ・ニコラ・フラメル」というレストランが入居し、窓からのぞくと、錬金術風の命名がなされたメニューが見える。 ・・, 『右岸編1』で歩いた”城壁跡”を地図で見るとこんな感じになります!A コワンの塔(フランソワ・ミッテラン河岸)B サントノーレ門(オラトワール教会前)C ルーヴル通り13番地D モンマルトル門(モンマルトル通り30番地)E サン・ドニ門(サン・ドニ通り135番地)F サン・マルタン門(サン・マルタン通り/グルニエ・サン・ラザール通り)-------------------------------------------------写真が多くなりますので、この後の右岸散歩は、『 パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩 (右岸編2) 』http://4travel.jp/travelogue/10942606 につづきます。次は、マレ地区(4区)の方へ歩いていきます!『 右岸編1 』 は、主に1?3区の商業エリアの散歩だったので、インパクトはいまいちだったかもしれませんが、私の今回のパリ滞在でのテーマ【 なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、 中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい! 】を達成するためには、ここも必要不可欠の部分だったので、記録しました。* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Mapshttps://goo.gl/1Rce1Y-------------------------------------------------, 利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 ブルボン家の分家オルレアン家出身で、1830年に七月革命によって国王に即位した。その七月王政はブルジョワジーの利益を最優先するものだった。1848年、二月革命が起こり、イギリス … シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe, 1874年8月4日 - 1909年12月21日)は、フランスの作家。 浅草 天丼 大黒屋 持ち帰り,
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よりやや大きい程度であった。)・ 当時の住民は12万人(または20万人)と言われている。 城壁が、この12万人の住居のみならず、付属の草地もぶどう畑も、作業の小屋さえも包み込んだ。------------------------------------------------- 右岸編1(10/11) http://4travel.jp/travelogue/10942604右岸編2(10/11) http://4travel.jp/travelogue/10942606左岸編1(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942608左岸編2(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942609城壁内編(10/13) http://4travel.jp/travelogue/10942610まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612, フィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)の跡を巡る、パリのお散歩。この地図は、その城壁跡を巡りながら散歩をするにあたり、自分が見たい場所の最低限を見てまわるには、どれくらいかかるのだろう?と思いながら、旅行前に、Google Mapで(徒歩)計測してみた感じです。このように、さくさくと歩けば、(現代の道を使えば)おおよそ「 7.2km 1時間31分 」 だということが分かりました。, そして、こちらは、実際に歩いた感じをGoogle Mapにマーカーした地図。城壁跡周辺のおもしろそうなところに” 寄り道しながら ” 歩いたのでこのようになりました。* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Mapshttps://goo.gl/1Rce1Y 右岸(上:10/11)と左岸(下:10/13)は、それぞれ日を分けて歩いたのですが・・実際に歩いた時間は、右岸:13:30頃から約2時間半?3時間、左岸9:00から約4時間、 でした。, フィリップ・オーギュスト時代のパリの城壁(Enceinte-philippe-auguste-1223-paris wikimediaより)-------------------------------------------------まず、この日(10/11・土)は、次のように動きました。□朝一で、パリの北近郊にあるサン・ドニ大聖堂へ。□12時前に、モンマルトルのブドウ収穫祭のセレモニーへ。■13時半頃から、フィリップ・オーギュストの城壁を歩く(右岸編)。□17時過ぎ〜、アベス駅付近でモンマルトルのブドウ収穫祭パレード見学。□21時45分〜、サクレクール寺院前でモンマルトルのブドウ収穫祭の花火見学。なかなかタイトなスケジュールの1日ですが、夕方以降は、そんなに歩きまわらず、一箇所で見学する、というような内容(パレード&花火)なので、とりあえず今は、この 『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 を頑張りたいと思います。まず、今日は、城壁があった右岸の西端(セーヌ川沿い)から半円を描くように歩いていきたいと考えています。 (※この地図の上の半円部分がセーヌ右岸)矢印で表すなら、こんな感じで歩きます。 → → ↑ ↓16時頃にサン・ルイ島でちょっと用事があるので、その時間を目指して、城壁のあった右岸の東端(セーヌ川沿い)まで歩きます。-------------------------------------------------, まずは、ルーヴル・リヴォリ駅で降りた後、通りがかって1枚撮影。サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois2 Place du Louvre, 75001 Parisここで祀られている聖ジェルマン(聖ゲルマヌス)は、ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセール司教。 サン・ジェルマン・デ・プレ教会の守護聖人、パリの聖ジェルマンとは違います。ヴァロワ王家が14世紀にルーヴル宮を居城にしたため、この教会がフランス国王の教区教会となり、歴代の国王がここで彩色に臨んだばかりでなく、聖堂の装飾に出資したり、寄進を行ったりした。1572年8月24日の晩に鳴り響いた朝課の鐘の音は、サン・バルテルミーの虐殺の合図となった。 (※この事件については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。), ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り スタート地点!!! ≫≫≫◆旧コワンの塔 Tour du Coin 界隈(現在のフランソワ・ミッテラン河岸、ポンデザール、ルーヴル美術館近く。)la Tour du coin, rive droite, tout près du Louvre (quai François-Mitterrand) セーヌ川沿い、ルーヴル美術館横、フランソワ・ミッテラン河岸に到着。このあたりに、コワンの塔 Tour du Coin があったようです。フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste) (地図は、Atlas historique de Parisより、以下地図も同。)http://paris-atlas-historique.fr/50.htmlhttp://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf, ルーヴル城塞とコワンの塔(左:右岸)と 対岸のネールの塔(右:左岸)( Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_et_hotel_de_Nesle_face_au_Louvre wikimediaより )セーヌに2つの小さな島が見えますが、シテ島の先っぽにこのような小さな島があったそうです。 上に小さく先端が見えるのがシテ島です。 ここにはないですが、シテ島の隣りのサン・ルイ島も2つに分かれていました。, ルーヴル城塞とコワンの塔(右)( Le rempart du Louvre le long de la Seine avec la tour du coin a droite. 本の中では、”フィリップ・オーギュストの城壁の壁さがし” という記事とともに ”パリにあったフィリップ・オーギュストの城壁の跡が記された地図” が載っていたのですが、この地図を見ていて、 【なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、 5.ルイ十三世の壁 宗教戦争が一段落すると、ルイ十三世(在位1610~43年)は長いあいだ放置されていた新城壁の問題を取りあげる。新城壁は、シャルル九世(在位1560~73年)が着工する。 Copyright(c) forTravel, Inc. All rights reserved. ルイ=フィリップ1世の発行されたナポレオン金貨の額面は20フラン金貨と40フラン金貨のみでしたが、試作金貨の100フランと実際は銀貨で発行するものを金打ちをした1フラン試鋳金貨が存在します。100フラン金貨は数百万という価値があるようです。試作金貨が再びオークション市場に出たときの価格は今保有しているかたが手放したいと思う価格ですよね。プルーフ型アンティークコインにも価値が多く生まれますが試鋳金貨のなかでもパターン貨のみでこの世に出回ることがなかったこちらのコイン、今は世界のどこで大切に歴史を刻んでいるのでしょうか? フランス最安 金貨買取本舗では海外金貨を高価買取中!プレミアのつく金貨は買取価格より別途査定価格がアップされます。お持ちの外国金貨はどれくらいの価格になるのか、価値が気になるかたはぜひ無料査定をご利用下さい。価格表にないコインもお買取りいたします。. ルイ=フィリップ1世(フランス語: Louis-Philippe I er 、1773年 10月6日 - 1850年 8月26日)は、オルレアン朝のフランス国王(在位: 1830年 - 1848年)。 爵位はヴァロワ公爵、シャルトル公爵、ヌムール公爵、オルレアン公爵など。 フォートラベルポイントって?, フォートラベル GLOBAL WiFiなら シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe, 1874年8月4日 - 1909年12月21日)は、フランスの作家。, フランス中部アリエ県のセリー(フランス語版)に木靴屋の息子として生まれる[1]。1891年に科学系バカロレアを取得し、パリに出てグランゼコール受験準備に努めていたが(志望校は理系最難関校のエコール・ポリテクニークとエコール・サントラル・パリ)[1]、病弱であったことも災いして不合格を繰り返し、学業を断念した[2]。その後、パリ第4区の区役所に勤めた。当時社会芸術運動を提唱していた『ランクロ』誌の同人となり、ディケンズ、ドストエフスキー、トルストイなどの影響のもとに、多くの作品を発表する。始めは高踏主義的な作風に惹かれるが、やがて貧しい庶民の生活を瑞々しい感覚で描くようになった。その作風は写実的ではあるが、民衆への温かい理解が行き渡っており、当時の自然主義作家の作風とは対極をなしている。独特の神韻縹渺な世界はジッド、ジロドゥなどにも高く評価され、日本でも堀口大學、淀野隆三らによって翻訳・紹介された。太宰治は、「かれ(フィリップ)こそ、厳粛なる半面の大文豪。世をのがれ、ひっそり暮した風流隠士のたぐいではなかった。三十四歳(原文ママ)で死したるかれには、大作家五十歳六十歳のあの傍若無人のマンネリズムの堆積が、無かったので、人は、かれの、ユーゴー、バルザックにも劣らぬ巨匠たる貫禄を見失い、或る勇猛果敢の日本の男は、かれをカナリヤとさえ呼んでいた」[3]と評している。, 髄膜炎に腸チフスを併発し、35歳の若さで死去[4]。故郷セリーの墓地に埋葬された。墓石のシャルル=ルイ・フィリップ像はアントワーヌ・ブールデル作である[5]。, 代表作に『ビュビュ・ド・モンパルナス』(1901年)、没後出版された短編集『小さな町で』(1910年)などがある。『ビュビュ・ド・モンパルナス』は1971年にマウロ・ボロニーニ監督により映画化された。映画の邦題は、同年、山崎剛太郎の翻訳として刊行された邦題『愛すれど哀しく』による。, Tombeau de Charles-Louis-Philippe – Cérilly, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=シャルル=ルイ・フィリップ&oldid=76977577, 『フィリップの本 - 小さな町の人々』小牧近江訳、山の木書店、1950年; アルス日本児童文庫刊行会(日本児童文庫)1958年(一、フィリップのお母さん(わが家 / 学校 / 病氣 / お母さん)二、フィリップの友だち(乳母車 / 小さな弟 / アリス / つむじまがり / 手まり / ずる休み / 聖水 / 火遊び / 鉄砲うち / 仔犬)三、小さな町の人々(小さな町 / お說敎 / 降誕 / ある一生 / 二人のこじき / 箱入娘 / ゴティエさん)), 淀野隆三訳『朝のコント』岩波書店(岩波文庫)1961年(チエンヌの女房の足 / バタの中の猫 / ロメオとジュリエット / 小犬 / 二人のならずもの / めぐりあい / 来訪 / ライオン狩り / 食人種の話 / マッチ / ほどこし / サタンの敗北 / 遺言 / 恋の一ページ / やきもち娘 / のんだくれ / 告白 - サルペトリエール精神病院の一患者から見出された手記 / 来訪者 / 人殺し / チエンヌ / ぬけやすみ / 純情なひとたち / 友達同士で / 三人の死刑囚), (ビュビュ・ド・モンパルナッス / 火つけ / 帰宅 / 二人の隣人 / 片意地な娘 / 弟 / アリス), 石川湧訳注『フィリップ短篇選集』(対訳)第三書房、1956年(荷車 / 老人の死 / ある生涯 / バタの中の猫 / ロメオとジュリエット / めぐりあい), 新潮社『フィリップ全集』(全3巻)(第1巻:小牧近江他訳、第2巻:吉江喬松他訳、第3巻:山内義雄他訳)1929-1930年. ナポレオン3世(第二帝政) ・普仏戦争敗戦 ↓ <第三共和制> 全体像. EUR 39.0~, リヴォリ通り Rue de Rivoli へ出ました。 (市庁舎 Hotel de Ville 側を撮影), オラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre 後陣側ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)をリヴォリ通り Rue de Rivoli へ抜けると、すぐに(リヴォリ通り沿いに)オラトワール教会の後陣が見えます。その、オラトワール教会の後陣側には、”コリニー提督の像”があります。コリニー提督 Gaspard de Coligny (宗教戦争期の新教徒軍指導者)は聖バルテルミーの大虐殺(1572年8月24日)の夜に殺され、この近くにあった自邸の窓から投出されたという人。16世紀には、オラトワール教会の地には、ガブリエル・デストレの館が立っていたそうです。 ある日この美しい愛妾を訪ねてきたアンリ4世は19歳の旧教同名員シャテルに襲われ、短刀で顔を切られた。 男は翌々日グレーヴ広場(現市庁舎前広場)で四つ裂きの刑を受けた。1616年、ベリュル枢機卿により創設されたばかりのオラトリオ会がこの地に居を定め、ル・メルシエの設計により礼拝堂(1621〜30)を建立させた。 建物はルイ13世の計画に従えば、ルーヴル宮の一部になるはずであった。 そして、事実、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世時代には王宮礼拝堂となった。(※先程1枚、次にも1枚写真を載せたサン・ジェルマン・ロクセロワ教会で起った聖バルテルミーの事件やコリニー提督については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。), リヴォリ通り越しに振り返ると、メトロ駅を降りて一番初めに撮った(聖バルテルミー事件で有名な)サン・ジェルマン・ロクセロワ教会が見えます。右に見えるのは、ルーヴル美術館の東端の建物。, オラトワール通り(Rue de l'Oratoire)を北へ。左に見えるのがオラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre です。145 Rue Saint Honore, 75001 Paris, ◆旧サントノーレ門 Porte Saint-Honore 界隈la porte Saint-Honore (au no 148 de la rue Saint-Honore, au niveau de la rue de l'Oratoire) 148 Rue Saint Honore, 75001 Parisオラトワール通りから見た(突き当たりの建物の通りが)サントーレ通り Rue Saint Honore。これから突き当たりを左に曲がりますが、左入ってすぐにオラトワール教会の正面(サントノーレ通り145番地)があり、その向かいが148番地。 そこに、サントノーレ門があったそうです。すなわち、ここに見える通りの右側は、”城壁内”だったというわけ。※ちなみに、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクがパリ攻撃の際、サントノーレ門あたりで負傷した、という歴史がありますが、ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門は、フィリップ・オーギュスト時代の城壁より(右岸は)一回り大きい城壁(シャルル5世の城壁)となっていたので、今ここで言っているサントノーレ門と違います。 ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門があったのは、現在のコメディ・フランセーズ(アンドレ・マルロー広場)近く、金色のジャンヌ・ダルク像があるピラミッド広場の少し東です。, ジャン・ジャック・ルソー通り Rue Jean-Jacques Rousseauサントノーレ通りに入った後、すぐルソー通り(北)へ入ります。ルソー通りの52番地にルソーが住んでいたそうですが、これについては数枚後の写真に再度コメントを載せています。 ルソー通りは、ルーヴル通りをはさんで途切れた感じ?になっていますが、番地は続いているようです。, ルソー通りとペリカン通り Rue du Pelican の角。ペリカン通りは、昔、遊郭があったいう通りなんだとか。ルーヴル宮(美術館)やパレ・ロワイヤルに非常に近い位置。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat19 Rue Jean-Jacques Rousseau ルソー通り19番地。ルソー通りの途中で、寄り道。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodatギャラリー・ヴェロ・ドダは、1822年に2人の豚肉加工業者ヴェロとドダが作ったもの。, ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodatガス灯が逸早く採用され、派手に飾られたアーケード街は大当たりし、店舗は高値で賃貸されたのだそうです。こうしたアーケード街は、19世紀にタイムトリップ、という感じですね。, パリ商品取引所 Bourse de Commerce de Paris南側の壁にはりつくようにして、高さ30mの溝彫りの円柱が1本立っているが、これはカトリーヌ・ド・メディシスのお抱えの占星術師ルッジエリの天文台だったらしい。, ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡13 Rue du Louvre, 75001 Paris商品取引所の前はルーヴル通り。そのルーヴル通りをはさんで商品取引所の斜め向かい側あたりが、ここルーヴル通り13番地。逆光で、写りがいまいちですが、街中に残る、城壁跡 です。, ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡13 Rue du Louvre, 75001 Parisまわりの補強が現代的でいまいちですが、城壁跡をこうして残しているのは良いですね。, ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈la poterne Coquilliere (rue Coquilliere, pres de la rue Jean-Jacques-Rousseau) コクイエール通り(Rue Coquilliere)からルソー通り(Rue Jean-Jacques Rousseau)を見て撮影。商品取引所の左にあるコクイエール通りに入ってきました。 これからは、カーブを描きながら東向きに歩いて行きます。(52 Rue Jean-Jacques Rousseau 手前右の家にルソーが住んでいたのだそうです。), ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈オ・ピエ・ド・コション Au Pied de Cochon黄葉と赤の庇が、なかなかきれいな場所でした。上の写真のすぐ近くで、この写真の目の前あたりに城壁があった、という位置です。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustacheコクイエール通りを東へ行くと、突き当たるのがこの教会です。 レ・アルも近づいてきました。もともと聖女アニェスに奉献された小さな礼拝堂がこの地に建ったのは1214年。 それから数年後に、礼拝堂は聖ウスタッシュに捧げられることになった。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache配置や骨組はゴチック式、装飾はルネサンス式。, サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustacheミサやコンサートを通してパイプオルガンと聖歌隊の昔ながらの名声が今も保持されている。19世紀には、ベルリオーズとリストがここで彼らの作品の一部を演奏した。, ◆ジュール通り Rue du Jourサン・トゥシュタッシュ教会隣りのジュール通り。 アニエス・ベーがある通りです。ジュール通りは地図を見ると分かりますが、東西南北の軸に対して斜めになっている通りですが、フィリップ・オーギュストの城壁のちょうど内側にあたるようです。, ジュール通り4番地 4 Rue du Jour, 75001 Parisここは、ロワイヨーモン修道院の旧パリ館だったところだそうです。ロワイヨーモン修道院 Abbaye de Royaumont とは、表紙に書いていたロワイヨーモン修道院(パリの北30kmほどのところ)のこと。 聖王ルイが1228年に創設し、1235年に完成した修道院。 行ってみたいのですが、公共交通の便は不便そうなところ。, ジュール通り4番地 4 Rue du Jour, 75001 Parisロワイヨーモン修道院の旧パリ館 と サン・トゥシュタッシュ教会。, ◆ジュール通り Rue du Jourこの通りの9番地に城壁の一部があるとか? フリーダイヤル0120-9610-66受付時間 10:00-18:00フリーダイヤル通話ができない場合047-409-10316コールで2回転送されます。長めにお電話ください。, 金貨買取本舗では金貨,銀貨,コイン,メダル,記念硬貨,金,プラチナを東京都,千葉県,神奈川県,埼玉県,茨城県で高価買取価格を実現!, 金貨買取専門店金貨買取本舗では日頃お買取りでお取り扱いをしている世界のコインをご紹介していきます。今回は19世紀フランス、ナポレオン皇帝についてもお話しましたが100日天下の後に王位についたフランス国王、ルイ=フィリップ1世についてお話いたします。
① まず、上の王朝名と王様の名前が全部言えるようにします。これがこのページの目標です。これを a 歴史上「ルイ=フィリップ1世」と称される人物は2人います。1人は、ブルボン朝の貴族「オルレアン公」ルイ=フィリップ1世。そして、王政復古により復活したブルボン朝が、7月革命によって再び倒された後に、市民に推戴されて王となったルイ=フィリップ1世です。
(写真左手)Au 9 rue du Jour (ancien chemin de ronde intérieur de la muraille qui passait entre la rue J-J Rousseau et la rue du Jour), un morceau de la muraille "découvert" par Arthur Gillette... ( http://www.philippe-auguste.com/ より。), ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈la porte Montmartre(au no 30 de la rue Montmartre, pres de la rue Etienne-Marcel)上のジュール通りをまっすぐ歩くとモンマルトル通りに突き当たり、すぐ左に曲がったところにモンマルトル通り30番地があります。 ここが、モンマルトル門のあったところです。30 Rue Montmartre, 75001 Paris モンマルトル通り30番地。, ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈30 Rue Montmartre, 75001 Parisフィリップ・オーギュストの城壁、モンマルトル門Enceinte de Philippe Auguste、Porte Montmartreここにはちゃんと看板があります! 30番地の上を見上げてください!, ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈30 Rue Montmartre, 75001 Parisモンマルトル通り30-32番地と13-15番地の間にモンマルトル門があったことを示すプレート。今、歩いてきたジュール通り Rue du Jour 通りがプレートの右下に見えます。いったん、ジュール通りからモンマルトル通りを左(北)に曲がりましたが、モンマルトル通りをレ・アルの方へ南下します(写真の地図で右へ)。, モンマルトル通りを南下して、アンパッス・サン・トゥスタッシュ Impasse Saint-Eustache から見える、サン・トゥシュタッシュ教会の袖廊北門。, モンマルトル通り Rue Montmartre から見たレ・アル Les Halles。前方右に見えるのは、サン・トゥシュタッシュ教会の後陣。〜 カペー朝 〜西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。 王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト 1165-1223)の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(後にルーブル宮殿に発展する。)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。 パリ大学は特に神学の研究で著名であった。 右岸に中央市場 「 レ・アル (Les Halles) 」 が作られたもこのころである。 こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 (wikipediaより), サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache の後陣を見上げながら東へ。, テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。モンマルトル通りからテュルビゴ通りに曲がりました。(手前右手に入ると、モネの絵に描かれた モントルグイユ街 Rue Montorgueil)モネが描いたモントルグイユ街はこちら。Claude Monet La rue Montorgueil, à Paris. Fête du 30 juin 1878Musee d'Orsayhttp://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monet-montorgueil.JPG, テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。(赤い庇のJET-LAGの通りが、モントルグイユ街 Rue Montorgueil)(教会に沿う通り、右奥の通りがモンマルトル通り Rue Montmartre), ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris エチエンヌ・マルセル通り20番地。テュルビゴ通りからエチエンヌ・マルセル通りに入りました。エチエンヌ・マルセル通り20番地に残るのが、上部に石落としのついた方形の塔、ジャン・サン・プール(ジャン無畏王)の塔。オルレアン公暗殺のあとブルゴーニュ公ジャン無畏王が1408年にたてたものだが、もとはブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne 、すなわちアルトワ館の一部でフィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)と背中合わせになっていた。地図上で、赤い●印を付けたところが、ジャン・サン・プールの塔がある(おおよその)位置です。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 ParisTour Jean sans Peurhttp://www.tourjeansanspeur.com/先程まで1区(75001)を歩いていましたが、ここで2区(75002)に入りました。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris中に入りたいのですが、今回は先へ急ぎます。, ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 ParisTOUR DITE DE JEAN SANS PEUR ANCIEN HÔTEL D'ARTOIS ÉLEVÉE SUR LA MURAILLE DE PHILIPPE AUGUSTEジャン・サン・プールの塔、旧アルトワ館、フィリップ・オーギュストの城壁に沿って建てられたちなみに、中に入ると、次のような城壁跡が見られるようです。 ( http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tour_Jean-sans-Peur.base_de_l%27enceinte_de_Philippe-Auguste_vers_1200.jpg?uselang=fr ), ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur20 Rue Etienne Marcel, 75002 Parisパリ市のモニュメントに建つ記念版。”ブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne ”ブルゴーニュ館は、ブルゴーニュ公のパリにおける居館のひとつでした。時は、百年戦争時。 ブルゴーニュ派とアルマニャック派がフランスを二分し壮絶な戦いをくりひろげていました。 ブルゴーニュ公ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur)はモーコンセイユ通り Rue Mauconseil (現在ジャン・サン・プールの塔のある1本南の通り)の居館の周囲に濠をめぐらし、戦闘に耐えられるように城塞化。 オテル・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ館)はフィリップ・オーギュストが構築した堅牢な城壁を利用して建てられていました。 ブルゴーニュ公は館の防御をかためるため、古い城壁を修復し、高さ27mもの堅固な塔を構築。 難攻不落の要塞と化し、王の居城でもあるルーヴル宮とオテル・サン・ポール(マレ地区/セレスタン河岸)ににらみをきかせていました。 この要塞にこもってさえいれば、狂気に襲われた王(シャルル6世)が兵をむけてこようとも、あるいは民衆が暴徒と化そうともおそれなくてよい、そうブルゴーニュ公は考えていたそうです。16世紀、ブルゴーニュ館は改築に改築をかさね、聖史劇および受難劇を上演する劇場として使われるようになり、1634年、ルイ13世の治下、王立劇団がこの劇場を本拠地とした。 ピエール・コルネイユの主要な作品、ジャン・ラシーヌのほとんどすべての作品は、この劇場で上演された。 ブルゴーニュ館は、1783年に新オペラ・コミック座が建設されるまで劇場としてつかわれ、その後、この建物は皮革製造の作業場となったが、1853年、エチエンヌ・マルセル通りを敷設するために取り壊された。, テュルビゴ通り Rue Turbigo と サン・ドニ通り Rue Saint Denis の角。次に目指すのは、サン・ドニ通り135番地です。中央右に、黒い庇の MATSUSUSHI(松寿司) と見える通りがサン・ドニ通りで、ここを右(南)に曲がるとすぐに、, サン・ドニ通り Rue Saint-Denisこちらにも、パリ市記念版。”サン・ドニ通り Rue Saint-Denis” は、パリで最も古い通りの一つで、いまでもうす汚い感じの通りだ。 ローマ時代につくられた道路だから真っ直ぐで、パリの中央市場レ・アル Les Halles (現在はオルリー空港近くのランジス Rungis に移転)に通じている。中世のパリでは国王がパリに出入りする場合んは必ずこの道を通るし、また北のサン・ドニ(Saint-Denis)の墓への巡礼のルートに当たり、いわば ”都大路” といったところだった。 当時は巡礼ルートというところから沿道には礼拝堂など宗教的建物が多く、無縁墓地も近くにあるといったぐあいで宗教色が支配的だった。ところが、現在のサン・ドニ通りは、”朝から夜の女が立つ”という有様だから、夜の盛況は推して知るべしである。 サン・ドニのこうした ”変身” は1800年代の後半に中央市場が開設されて以来のことで、朝から女性が商売をするのは ”市場で働くお得意さん” のためだそうだ。(参考:セーヌのほとり/倉田保雄著)参考まで、モネが描いたサン・ドニ通りはこちら。先程紹介した、モントルグイユ街に似た構図です。CLAUDE MONET (1840-1926)Rue Saint-Denis, fête du 30 juin 1878Rouen, musée des Beaux-artshttp://mbarouen.fr/fr/oeuvres/rue-saint-denis-fete-du-30-juin-1878, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈la porte Saint-Denis ou porte aux Peintres (au croisement de la rue Saint-Denis et de l'impasse des Peintres)135 Rue Saint-Denis, 75002 Parisサン・ドニ通り135番地に到着しました。上を見上げてよく見てみてください!ここにサン・ドニ門があったことを示すプレートがあります!, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris サン・ドニ通り135番地。サン・ドニ門があったことを示すプレート。地図を見ると分かりますが、ここは三角形のような形の区画になっていて、この看板をみつけるのに一寸戸惑った場所。 この看板があるのは135番地とは調べていたのですが、「135」という番地プレートがみつからなかったのです。, ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈135 Rue Saint-Denis, 75002 Parisサン・ドニ通りの135番地と110-112番地の間にサン・ドニ門があったことが示されています。 地図があると位置関係がとても分かりやすいです。サン・ドニ門はパーントル門とも呼ばれていたそうです。 (パーントルは画家の意、すぐ近くに Impasse des Peintres という道がある。)シャルル5世時代のサン・ドニ門より南に位置します。, パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf145 Rue Saint-Denis, 75002 Paris サン・ドニ通り145番地。サン・ドニ通りを少し北に行くとパッサージュがあるので寄り道。, パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf145 Rue Saint-Denis1825年にグラン=セール(大鹿)小路 Passage du Grand Cerf が開通した。 これは同名の宿屋があった場所で、大革命までは郵便馬車の発着所だった。1960年のルイ・マル監督の映画『地下鉄のザジ Zazie dans le metro』で使われたというパッサージュです。, パッサージュ・グラン・ラベ(Passage du Bourg l'Abbe)サン・ドニ通りをはさんで、左(西)に、パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerfサン・ドニ通りをはさんで、右(東)に、パッサージュ・グラン・ラベ Passage du Bourg l'Abbe がある。パッサージュ・グラン・ラベのサン・ドニ通り側の入口は工事中で、ほとんど人がいなかったです。, オー・ウールス通り Rue aux Oursウールスとは、動物の、熊、の他にスラングで、生理、の意味があるとか。近くに、かつてのパリの有名な娼婦街、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis がある。, オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点 に到着。この写真は、サン・マルタン通りの南側を撮影。まっすぐ南下すると、ポンピドーセンターです。下の写真は、逆向きに撮影しました。, ◆旧サン・マルタン門 Porte Saint-Martin 界隈la porte Saint-Martin (au croisement de la rue Saint-Martin avec la rue du Grenier-Saint-Lazare)オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点。この写真は、サン・マルタン通りの北側を撮影。ちなみに、サン・マルタンというのは、現在一般的にトゥールのマルティヌスと呼ばれる聖人のこと。 316年ごろ、ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア生まれ。 ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊。 所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアンに派遣された時、「マントの伝説」が起こる。 ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。 彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。 この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。 ・・ トゥールの司教となったサン・マルタン(マルティヌス)は町の北からパリに入った。 信者たちは、この司教のマントに触れようと先を争った。 サン・マルタンの目は群衆ではなく、北の城門のそばで城壁に背をもたせかけている癩病人にむけられていた。 司教は癩病人のほうに身をかがめ、頬に接吻したあと、男の頭に両手をおいて祝福をあたえた。 翌日、病人は歩いて教会に入っていった。・・サン・マルタンが癩病人を癒したところ、パリ北部のローマ時代の道、それが現在の サン・マルタン通り 、なのだそうです。ここは、サン・マルタン通りの西(写真左側)がオー・ウールス通り、東(写真右側)がグルニエ・サン・ラザール通り、となる地点で、1本の道なのに、右と左で名前が変わるややこしい地点なのですが、グルニエ・サン・ラザール通りとサン・マルタン通りの交わるあたりにサン・マルタン門があったみたいなので、おそらくこのあたりに ”サン・マルタン門” があった、と思われます。後の、シャルル5世の城壁時代(ブールヴァールという道路に城壁跡ルートの名残)のサン・マルタン門より、やや南側に位置します。写真右手にホテル・ジョルジェットという名のホテルがあるので、目印に。, Rue de Montmorency モンモレンシー通りグルニエ・サン・ラザール通りのすぐ北に並行する通り、モンモレンシー通りに入ります。このあたりが今日歩くルートの中で一番北側に位置する通りです。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Paris2区(75002)から、3区(75003)に入りました。3区、モンモレンシー通り51番地。 ここは、正確に言うと、上記サン・マルタン門のすぐ外に位置する(中世/15世紀初頭につくられた)民家だったらしい。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisこの家は、昔から、パリで二番目に古いとされていた。建築物というのは、過去のオリジナルなデザインが踏襲されたレプリカが同じ場所に建てられることが少なくない。 パリの場合も同じ問題があった。パリ3区ヴォルタ通り Rue Volta 3番地の「パリで一番古い」といわれた建物が、13世紀の遺物ではなく、1644年にパリ市民が中世の様式を真似て建て替えたという事実が当時の事実から判明したのだ(1979年)。その結果、にわかに注目を集めることとなったのが、パリで二番目に古いとされる同じ3区の「ニコラ・フラメルの家」だった。(以下、ニコラ・フラメルの家に関して、参考:パリの秘密/鹿島茂著), ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisニコラ・フラメル(1330-1418)というのは、一介のパリ大学書記であったにもかかわらず、施療院や教会の莫大な額の寄付を行ったことから、錬金術師だったのではないかと噂された人物で、隠秘学の匿名の著作はしばしば彼の作とされる。このニコラ・フラメルが晩年に住んでいたのがモンモランシー通り51番地の家。 その跡を訪ねると、番地の上に 「 ニコラ・フラメルとその妻ペルネルの家 彼らの慈善事業の思い出を保存するため、パリ市は1407年に刻まれた最初の碑銘を1900年に修復した 」 というプレートが嵌められている。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Parisたしかに、一階入口の框(かまち)には 「 勤倹なるわれわれ夫妻は、1407年に建てられたこの家の玄関に住み、神に罪の許しを乞いながら、日々、主のアヴェ・マリアを唱えて過ごした。 アーメン 」 という言葉が中世フランス語で刻まれている。しかし、見るべきは、ファサードの門柱に刻まれた、いかにも中世の錬金術師らし薄浮き彫り。 ヘルメス学やオカルティズムの神秘をあらわうようなニコラ・フラメルの頭文字、それに天使の像や謎の文様が、われわれを一気に中世に運ぶ。 この薄浮き彫りは、1929年に積年の汚れを落とされ、蘇ったということだが、それからすでに76年を経ているためか、再び真っ黒に汚れて、中世の雰囲気を効果的に演出している。, ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel51 Rue de Montmorency, 75003 Paris建物自体も修復されたらしく、数カ所に鉄骨で補強がなされているが、いまでも、民家として使われ、ちゃんと人が住んでいるのは立派。 一階には「オーベルジュ・ニコラ・フラメル」というレストランが入居し、窓からのぞくと、錬金術風の命名がなされたメニューが見える。 ・・, 『右岸編1』で歩いた”城壁跡”を地図で見るとこんな感じになります!A コワンの塔(フランソワ・ミッテラン河岸)B サントノーレ門(オラトワール教会前)C ルーヴル通り13番地D モンマルトル門(モンマルトル通り30番地)E サン・ドニ門(サン・ドニ通り135番地)F サン・マルタン門(サン・マルタン通り/グルニエ・サン・ラザール通り)-------------------------------------------------写真が多くなりますので、この後の右岸散歩は、『 パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩 (右岸編2) 』http://4travel.jp/travelogue/10942606 につづきます。次は、マレ地区(4区)の方へ歩いていきます!『 右岸編1 』 は、主に1?3区の商業エリアの散歩だったので、インパクトはいまいちだったかもしれませんが、私の今回のパリ滞在でのテーマ【 なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、 中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい! 】を達成するためには、ここも必要不可欠の部分だったので、記録しました。* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Mapshttps://goo.gl/1Rce1Y-------------------------------------------------, 利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 ブルボン家の分家オルレアン家出身で、1830年に七月革命によって国王に即位した。その七月王政はブルジョワジーの利益を最優先するものだった。1848年、二月革命が起こり、イギリス … シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe, 1874年8月4日 - 1909年12月21日)は、フランスの作家。 浅草 天丼 大黒屋 持ち帰り,
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